カテゴリー別アーカイブ: 思想

Kentaurosが考える、哲学・宗教的な思想の記事です。Kentaurosが本ブログで最もお伝えしたいことを書き記しています。

真実は多面的なものではないか

「裁判とは、『真実』により近い『事実』を導き出すものである」
いつぞやのニュース記事で目にした文言。ちょっと前までは確かにその通りだと思っていた。でも最近、実は逆なのではないかと思い始めた。

「真実とは、唯一の事実を、関係する要素それぞれから見た多面的なものではないか」
実際のところ真実なんてものは見方によって180度変わるわけだ。

そういう意味では冒頭の一文はこう書けば済む話か。
「裁判とは、唯一の『事実』に一面から光を当て、関係する全ての要素が納得する一連の事象を定義づけた『真実』を導き出すものである」

「事実」とは、関係する全ての要素から導き出されるものであり、裁判を例に取れば、被害者、加害者、全関係者、現場、動機、時間から運までひっくるめた一連の「事象」を指すものであり、それを再現することは不可能なものと思う(それは全てのピースがそろわなければ導出できない;時間や運は再現できない)。そこで法社会を運用していく上での現実的解として、みんなが納得できる再現可能な範囲での事実を「真実」とするのではないか?

つまり、真実は多面的なものであり、一般的に言われる「真実」とやらに縛られるのではなく、物事は見る面によっていくらでも捉えようがある、ということである。

ふと、そんなことを思った夏の夜でした。

運命論と、その解釈

私は所謂「運命論者」である。即ち、この世における全ての事象は「運命」によって定められた原因と結果を辿っているに過ぎない、と考えている。

運命を語る時、人によっては「運命は変えられる」というように語られることがある。しかし、私はそのようには考えていない。そのように語られる「変えられる運命」とは、実際には「その事象を変えることが定められていた運命」でしかなく、結局の所は全て運命に支配されている、というように考えている。

ただしここで重要なのは、「運命に支配されているから、何をやっても無駄である」という思考に陥ってはならないことである。人がそのような思考に陥るとき、その思考もまた運命がもたらしうる結果でしかないのである。

人がより良い人生を送るにあたって、「運命が変えられるものであるかどうか」は、大した意味がない。人にとって「運命に従うこと」は、人が未来を考える上では無意味であり、結果だけが運命から導き出されるのである。

運命は、人生にとっては抽象化された事実でしか無く、それ自体は気にする必要のないものなのである。よって人が生きる上では「真摯に生きること」だけが重要であり、その原因と結果が運命の導きなのである。

真摯に、生きる

全ての生物・生命は、真摯に、生きなければならない。全ての生命はやがて死ぬことを定められているが、それは真摯に生きることを定められていることの裏返しでもある。死ぬことが定められているからこそ、生きている間を真摯に過ごさねばならない。生物にとって「真摯に生きること」は、生まれながらに課せられた責務である。

生物にとっての責務が真摯に生きることであるならば、自殺は生物が犯しうる最大の罪である。人類以外の生物は、たとえどんなに苦しい境遇に陥ろうとも、肉体的な致命傷を負おうとも、決して生きることを諦めない。彼等は生物としての責務を、本能から実践しているのである。

しかし人類は時として、生物の責務を放棄し、自殺する。真摯に生きることが生物にとって唯一の責務であるにもかかわらず。自殺を選ぶようになった人類は、生物として誤った方向へ進んでいるのではないか。

私は、”一人間”である前に、”一生物”・”一生命”である。私は、たとえどんなに苦しい境遇に陥ろうとも、死ぬその間際まで生きることを諦めず、真摯に生き抜くことを、これからの人生における最大の信条とする。