「裁判とは、『真実』により近い『事実』を導き出すものである」
いつぞやのニュース記事で目にした文言。ちょっと前までは確かにその通りだと思っていた。でも最近、実は逆なのではないかと思い始めた。
「真実とは、唯一の事実を、関係する要素それぞれから見た多面的なものではないか」
実際のところ真実なんてものは見方によって180度変わるわけだ。
そういう意味では冒頭の一文はこう書けば済む話か。
「裁判とは、唯一の『事実』に一面から光を当て、関係する全ての要素が納得する一連の事象を定義づけた『真実』を導き出すものである」
「事実」とは、関係する全ての要素から導き出されるものであり、裁判を例に取れば、被害者、加害者、全関係者、現場、動機、時間から運までひっくるめた一連の「事象」を指すものであり、それを再現することは不可能なものと思う(それは全てのピースがそろわなければ導出できない;時間や運は再現できない)。そこで法社会を運用していく上での現実的解として、みんなが納得できる再現可能な範囲での事実を「真実」とするのではないか?
つまり、真実は多面的なものであり、一般的に言われる「真実」とやらに縛られるのではなく、物事は見る面によっていくらでも捉えようがある、ということである。
ふと、そんなことを思った夏の夜でした。